1990年代後半から2000年代前半にかけての金融危機は、銀行、証券会社、そして生命保険会社を破綻に追い込み、合従連衡を促した。そうした中、自主独立路線を堅持したフコク生命。当時の経営陣は、何を考え、何を決断したのか。
金融危機の真っ只中である1998年、第8代社長に就任した秋山智史(あきやま ともふみ)にリーダーとしての信念、そしてお客さまへの想いを、100周年プロジェクト社史外伝チーム(※1)のメンバーが聞いた。

※1 100周年プロジェクト社史外伝チーム
2023年に創業100周年を迎える当社は、「THE MUTUAL」(ザ・ミューチュアル)というコンセプトのもと、100周年プロジェクトに取り組んでいる。「THE MUTUAL」とは、共感・つながり・支えあいをベースとした、次の100年に向け進化する次代の相互扶助のこと。社史外伝チームは、年表では読み取れない役職員の心情や熱意を深掘りし、その想いを語り継ぐべく記録として遺す。

自分の人生を切り開いてくれたのは
小林中氏だと思っています

秋山がフコク生命に入社したのは1959年。経理部に配属され保有不動産の賃料管理などを担当していたが、入社3年目には出向を命じられ、戦後日本の「財界四天王」と呼ばれた小林中(こばやし あたる)の秘書となる。
小林中は、富国生命保険相互会社第3代社長や生命保険協会会長を務めたのちに、日本開発銀行(現日本政策投資銀行)初代総裁やアラビア石油社長、日本航空会長などの要職を歴任。また、大蔵省(現財務省)の諮問機関であった財政制度審議会(※2)の会長として建設国債(※3)の発行を決定するなど、日本経済再建に尽力したという。

秋山
小林中という人は、明治生まれということもあるかもしれませんが、ものを考える原点に、国や国家という概念が常にありました。普段は「朝早くに起きるのはおかしい。ゆっくり起きて風呂に入らないと目が覚めない」と言って、事務所の始まりが11時という無精な人。しかし、お国のため、お国のためと大袈裟に言わなくても、世のため人のためなら、非常に真剣に取り組まれる。そういう時は無精ではない。極めて緻密な調査を求め、極めて緻密な判断をする。だから、実現可能性が非常に高い。その実現力は大蔵省でも「すごい」と話題になったくらいで、国家がどのようにあるべきかを常に真剣に考えていました。戦後すぐということもあり、日本の行く末をきっちりと定めなければという想いが非常に強かった。
日本のあるべき姿を貫徹する。これを目の当たりにしたことは勉強になりました。自分の人生を切り開いてくれたのは、小林中氏だと思っています。一企業の社長の器を超え国家観を持った発想をする、尊敬という言葉しかない人です。

※2 財政制度審議会
1950年に設立。国の予算や決算、財政投融資などを調査・審議する大蔵省の諮問機関。学者や企業経営者らの有識者で構成し、1965年〜1975年にわたり小林中が会長を務めた。

※3 建設国債
国が公共事業費や出資金・貸付金の財源に充てるために発行する国債。

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富国生命保険相互会社という社名の
上にも下にも横にも他の名前を入れない

秋山は、小林中の秘書を20年にわたり務めたのち、財務部長としてフコク生命に戻る。そして、金融危機の真っ只中である1998年7月、第8代社長に就任する。

秋山
社長だと言われて、喜んでとは言わないけれど、やらせていただきましょうと。しかし、就任してすぐに、複数の生命保険会社の経営不安が報じられるなど、大変な時に社長を引き受けることになったと思いました。実際、社長就任の前年には戦後初の生命保険会社の経営破綻もありました。正直に言うと、生命保険会社が潰れるということは、僕の頭の中にはなかった。フコク生命に入社してすぐの頃、アクチュアリーである先輩に「生命保険会社って潰れるんですか」と訊いたら、「何を言っているんだ。きちんとお客さまに向き合って、保険料をいただき保障を守っていけば潰れるわけはない」という言葉が非常に強く印象に残っていたので。

秋山の社長在任中には、他社から一緒にやりませんかという話もかなりあったそうだ。しかし、秋山は断固として合併という道を選ばなかった。

秋山
20年にわたる小林中氏の秘書経験で学んだ真理の一つに、対等な合併は存在しないということがあります。対等の精神とはいえ、実際はどちらかが強くて、どちらかが弱い。合併をするならば、食うか食われるかの闘争をやらなければならない。それをやりたくないなら、合併なんてやるものではないと思っていました。
富国生命保険相互会社という社名の上にも下にも横にも他の名前を入れない。誰がなんと言っても合併はしない。これから先は分からない。でも、私は正しいことをやったと思っています。

他社からの誘いを断り続けた秋山だが、1999年に安田生命との業務提携を発表する。そこに至った経緯は、当時の安田生命社長との会食中に「こんな時代だから、お互い勉強しませんか。一緒に研究するチームを発足しましょう」という話があったからだと言う。会食の最後に、「一緒に勉強するのはいいですけど、合併はまっぴらごめんですよ」と話したと秋山は笑う。

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事業拡大ありきで考えたらうまくいかない
量を追わず、質を追う

最後に、お客さまとの約束を未来永劫守り続けるために、大切にすべきものは何か。次の100年を創っていくフコク生命職員へのメッセージを聞いた。

秋山
お客さまを守るということ。これに尽きると思っています。
2011年3月に発生した東日本大震災。もちろん、当社の営業職員も避難していましたが、携帯電話でお客さま一人ひとりに「大丈夫?」「元気?」「被害状況は?」と安否確認をされていたとのことです。この話を聞いて、私は心底感激しました。
いかなる時も、お客さまに寄り添うこと。お客さまにきちんと保険金や給付金をお支払いすること。お客さまを守ることができない保険会社なんて何の意味もありません。もちろん、お客さまを守るために会社の役職員全員で頑張っていますが、実際にお客さまと向き合っているのは営業職員です。だから、その存在は極めて大きい。改めて、Face to Faceは生命保険の原点だと思っています。
もちろん、テクノロジーの進化に伴い、お客さまを守ることやお客さまのニーズを捉えることの方法は変わるのかもしれません。しかし、どれだけ時代が変わろうとも、営業職員がお客さまを守るという想いや信念を持っているということが絶対だと思います。これはとても尊いことです。こうした想いを、これからも持ち続けていくことに意義があると確信しています。
これからどうなるか、と考えたときに、事業拡大ありきではうまくいかない。次代の相互扶助である「THE MUTUAL」というコンセプトを、どのように実現していくのか。生命保険という仕事を続けていくのなら、「THE MUTUAL」は絶対です。
相互会社という会社形態には非常に意味があります。相互会社としてお客さまを守るための経営を真剣に考えていく。相互扶助という助け合いの精神を貫徹していくということです。
それは、相互会社としての質を高めること。つまり、「量を追わず、質を追う」ということ。そして、これは私たちのDNAである「最大たらんよりは最優たれ」に他なりません。

「富国生命保険相互会社という社名の上にも下にも横にも他の名前を入れない」と語る秋山の言葉には、フコク生命を守ることはもちろんだが、何よりもフコク生命にご契約をいただいているお客さまとの約束を守り続けるという強い信念がある。
金融危機においてもフコク生命が自主独立路線を堅持できたのは、歴代のリーダーたちがやみくもに規模を拡大しようとせずに、お客さまとの約束を守るために相互会社としての質にこだわったからだ。秋山が最後に語った「量を追わず、質を追う」という言葉を胸に、相互扶助の精神を貫き、お客さまとの約束を未来永劫守ること。これが先人から託された私たちの使命だ。

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秋山智史(中央手前)と100周年プロジェクト社史外伝チームメンバー

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