2011年3月11日14時46分18秒、自然が突如として牙をむいた。宮城県牡鹿半島の東南東沖130キロメートルを震源とするマグニチュード9.0の地震が発生。海底で発生した巨大な揺れはやがて大きな津波となり沿岸の街をのみ込んだ。これまでに確認された人的被害は、東北地方を中心に2万人を超える。
津波で変わり果てた光景を目の前に人は何を想うのか。東日本大震災に直面したフコク生命職員たちのありのままの記憶を、100周年プロジェクト社史外伝チームがここに遺す。

※ 100周年プロジェクト社史外伝チーム
2023年11月に創業100周年を迎える当社は、「THE MUTUAL」(ザ・ミューチュアル)というコンセプトのもと、100周年プロジェクトに取り組んでいる。「THE MUTUAL」とは、共感・つながり・支えあいをベースとした、次の100年に向け進化する次代の相互扶助のこと。社史外伝チームは、年表では読み取れない役職員の心情や熱意を深掘りし、その想いを語り継ぐべく記録として遺す。

あの日、亡くなられた人の明日を、
わたしたちは生きている。

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いしのまき営業所のお客さまアドバイザー千葉繁子(ちば しげこ)は「わたしは、被災者ではない。家族や家を失われた方のことを思うと、本当に申し訳ない」という。地震と津波によって家族も家も失わなかったことに後ろめたさを感じながらも、わたしにできることをしよう、今できることをしようと、そう思って生きてきた。

千葉
地震発生時は、お客さまが勤務されているドラッグストアに訪問していました。大きな揺れでしたが、「また地震か」と、騒いでいる人を大袈裟だなと見ていました。しかし揺れは収まらず、どんどん強くなる。お客さまから「千葉さん、逃げましょう!すぐに!」と言われ、外に避難することに。出入り口に置かれたショッピングカートが、ガッチャンガッチャンと激しく動いていて外に出ることができない。お客さまが抑えてくれて、ようやく外に出ることができました。経験したことのない揺れに、一体何が起きたのかとしばらく呆然としていました。その時は、津波が来ることなど1ミリも想像していません。息子が仙台港で働いていたのですが、地震発生直後に携帯がつながり、「大丈夫だよ」と会話ができたのですっかり安心していました。電話を切った直後、仙台港に津波が押し寄せ、後日息子から九死に一生を得たことを聞きました。
津波による被害を目の当たりにしたのは翌日のことです。とにかく知人の安否確認をしようと、車を走らせました。ところが、内陸にある自宅から2キロも離れていない道が通行止め。他の道を探して走り出すも、また通行止め。どこも通行止め。こんなに海から遠く離れた場所まで津波が来たのだと、とんでもないことが起きたと怖くなったことを覚えています。
途方に暮れる中、お客さまの安否確認をするため東松島市役所に向かいました。何とか辿り着くことができた市役所は、被災した人たちで溢れかえっていました。市役所の中に入ることをためらうぐらいです。結局、その日は車から降りることなく、何もせずに帰りました。わたしは保険の営業で、市役所にお邪魔させていただいている立場。「こんな時に何をしに来たの」「あなたの出る幕ではないよ」と言われるのではないか、わたしはここに居てはいけないと思いました。正直に言うと、市役所に来たことさえ、お客さまに知られるのが怖かった。
「お客さま」というとビジネスだけのつながりのように思われがちですが、わたしにとっては家族のような存在。市役所を訪れたのも、お客さまのことがただただ心配だったからです。やっとお客さまとお会いできたのは、何度か市役所を訪れてから。怖くて声がかけられなかったことをお伝えすると、「何が怖かったの?よく来てくれた」と温かく迎えてくれました。ご家族を亡くされ、ご自宅が流された方もいらっしゃることをお聞きしました。そのような中でも市役所の皆さんは、1週間以上も市役所に寝泊まりし公務に従事されていました。市役所を見渡すと、1階も2階も泥だらけ。「ここで段ボールを敷いて寝てんだ」と、笑いながらお話しする市役所の皆さんを見ていると、ただただ泣けてきました。わたしは、家族も家も失っていません。突如として深い闇に突き落とされた方がいらっしゃると思うと、本当に申し訳ない気持ちになりました。だけど、わたしより大変な人たちが前を向いて頑張っているなか、落ち込んではいられない。前を向こう。わたしに、今できることをしよう。ほんの少しでも力になれたらと、泥だらけの市役所の掃除をしました。皆さんの邪魔にならないように。掃除をしに市役所に通う姿を見ていた新人のお客さまアドバイザーが「わたしも行きます」と言ってくれた時に、やっと少し許されたような感覚になりました。

東日本大震災では多くの命が失われ、石巻市だけでも1000人以上の方が亡くなりました。それから保険をお勧めする時に、「例えば」ということを言えなくなりました。震災以前は、「例えば、ご主人がお亡くなりになった時には、これくらいの保障が必要になります」という説明をしていました。もしかすると、お客さまの姉妹のご主人が亡くなっているかもしれない。あるいは、お父さまが亡くなっているかもしれない。そういうことを考えると、安易に「例えば」を言葉にできなくなりました。保険をお勧めしづらいわけではありません。お勧めはします。保険は大切なものなので。ただ、多くの人の命が失われたという現実がある以上、例え話はできない。保険は必要なものだということは、いつでも心の中心にあります。保険に加入していたおかげで、心の復興ができたと言ってくださるお客さまもいらっしゃいます。失われた命を取り戻すことはできませんが、保険によって支えられた方は少なからずいらっしゃいます。ですから、これからも保険の大切さをお伝えしていきます。それが、わたしの仕事なのです。
東日本大震災から時が経ち、瓦礫の山だった場所には新しい街ができ道路も整備され、あの日からは想像もできない平和な光景が広がっています。それでも、ショッピングモールで楽しそうにしている家族連れを見て、あの日、亡くなった人はここにはいないのだなと思うことがあります。野球観戦に訪れスタンドを埋め尽くす2万5000人の観衆を見て、あの日、同じ数の人の命が失われたのだなと思うことがあります。あの日、亡くなられた人の明日を、わたしたちは生きている。12年経った今でも、そう感じます。これから先も、あの日、亡くなられた人の明日を精一杯に生きていくこと。それが、生かされたわたしたちの使命なのだと思います。

お客さまに会いにいく。
それが、わたしにできることだから。

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避難する車の中、ニュース映像を見た時の衝撃を今でも鮮明に覚えているという高橋徹(たかはしとおる)。お客さまの安否確認のために、何ヵ所もの避難所を巡った。

高橋
経験したことのないとても大きな揺れでしたが、あれほど大きな津波が来ることは想像もしていませんでした。巡回していた市の広報車の警報によって、津波が来ていることを知りました。とにかく一刻も早く海から離れなくてはと、すぐに高台の公園へと避難。避難する車のなかでニュース映像を見て、愕然としたのを今でも鮮明に覚えています。少しでも内陸へと走る車が、次々と津波にのみ込まれていく。テレビの画面越しに、「逃げろ!」と思わず叫んでいました。大変なことになった、明日からどうなるのだろうと、今まで感じたことのない不安な気持ちになりました。
わたしは幸いにも大きな被害を受けることはなく、お客さまやお客さまアドバイザーからの連絡に備えるために、震災から3日後の月曜日から営業所に出社しました。すぐに本社から支援物資が届いた時は、本当にありがたい気持ちでいっぱいになりました。お客さまのところに訪問できたのは、地震発生から1週間が過ぎた頃です。津波の被害を受けたお客さまが多く、電話が通じにくい状況だったため安否確認をするために各地の避難所を巡ることを始めました。色々な事情でお住まいの地区にある避難所にいらっしゃらなかったり、親戚の家に身を寄せられていたりと、安否確認はとても苦労しました。全国のお客さまサービス担当にも協力してもらい、すべてのお客さまの安否確認ができた時に、本当に少しだけですが安心することができました。
震災直後は、保険のことを考える余裕はありません。明日からどう生きていこう、どう生活していこう、目の前のことで精一杯です。そのような中で、わたしにできたことは、お客さまの話をお聞きすることぐらいでした。「こんなことがあって大変だった」「お互いに無事でよかった」と、会話をすることでお互いに心が落ち着いていくように感じました。わたしが、お客さまの支えになれたかはわかりません。ただ、わたしにとって、お客さまの存在はとても心強いものでした。
この街が好きです。海のことを嫌いになれません。しかし時に牙をむいて、多くの被害をもたらすことがある。自然は本当に雄大であり脅威でもあることを思い知らされ、自身の無力さを痛感しました。わたしにできたことは、お客さまに会いにいくことだけです。震災に直面して改めて感じたことは、お客さまとのつながりの大切さです。フコク生命は創業以来100年、「Face to Face」でお客さまの保険に関するお悩みやご相談と向き合ってきました。お客さまにお会いすることで安心をお届けする、それがわたしたちの仕事です。これからも、お客さまに会いにいくことを続けていきたい。それが、わたしにできることだから。

悲しみのうえに、
さらなる悲しみをつくらない。

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全国各地の営業所で所長を務めてきた長澤悟(ながさわさとる)は、東日本大震災の前年に石巻営業所長(現:いしのまき営業所)に赴任。震災を経験したことで、生命保険の存在意義を強く意識するようになったという。

長澤
その時間は、ほとんどのお客さまアドバイザーは外出中で、営業所にいたのはマネージャーと事務員、あとは数名のお客さまアドバイザーだけでした。突然、今まで経験したことのない大きな揺れに襲われ、立っていることもままなりませんでした。営業所は大きな被害を受けませんでしたが、電気は止まり、電話もつながらない状況。職員を預かる所長の立場としては、職員の安否が気になりました。電話がつながらない状況でしたので、たまに通じるメールで連絡したり、避難所の名簿や掲示板を確認したりと地道に安否確認を進めていきました。職員全員の安否確認ができたのは、1週間が過ぎた頃です。
大きな津波が来ることを知ったのは、地震発生から1時間後ぐらいだったと思います。お客さまサービス担当からの電話で「所長大変です!大きな津波が来ます!」と。わたしは津波が来ることを、全く想像できていなかった。津波が到達していると聞き、大変後悔したのを覚えています。営業所にいた一人のお客さまアドバイザーを、海の方にある自宅に帰してしまったからです。小さなお子さんがいたので心配だろうと。連絡が全くとれなく、あの時、なぜ帰してしまったのかと。後日、お客さまアドバイザーの自宅に行くと、1階が津波に根こそぎ削りとられていました。骨組みしか残っていない。お客さまアドバイザーにもしものことがあったら、本当にどうしようかと。避難所の名簿を探しても、お客さまアドバイザーの名前が見つからない。途方に暮れていたところ、「所長!」と声をかけられた。あの日、自宅に帰したお客さまアドバイザーのお子さんでした。「お母さんは?」と恐る恐る聞くと、「大丈夫、今は病院に行っているよ」と。お客さまアドバイザーの無事を確認できて、本当に安心しました。後になって、そのお客さまアドバイザーから聞いた話なのですが、車で自宅へと帰る途中で津波に遭遇。車ごと流されたが、民家の壁にぶつかり止まった車から窓を割って脱出。何とか逃げることができたということでした。あの日、命が救われた人と亡くなられた人は、本当に紙一重だったのだと実感した出来事です。

震災の翌日からは、営業所で待機。電話が通じないなかで、直接営業所にご来社されるお客さまに対応するためです。「フコク生命のご契約者さまは、こちらにご連絡をください」というポスターを、みんなで手分けして避難所に貼りに行きました。被害が少なかったお客さまアドバイザーたちは、自発的にお客さまの安否確認を行っていました。そういう姿をみて、こんな時にもお客さまのために行動できるのだなと感動しました。
しばらくして、わたしが石巻営業所に赴任して初めてご契約いただいたお客さまから、ご家族が亡くなられたという連絡をいただきました。営業所に手続きに来られたのですが、本当に辛く悲しいことで、何と声をおかけしていいのかわかりませんでした。後日ですが「本当に早く手続きをしてくれてありがとうございました」と言っていただいたことを担当のお客さまアドバイザーから聞きました。悲しみのうえに、経済的な悲しみまでつくらないのが生命保険。本当の生命保険の大切さ、生命保険の意義を実感しました。
震災発生から1年後、石巻営業所を離れることになりました。震災に直面した人は、生かされたとよく言われます。わたしも同じような気持ちを、今でも持っています。あの日、命が助かったのだから、日々一生懸命生きようと。震災以来、お客さまアドバイザーには、もっと一生懸命に、もっと熱心に保険を勧めてくださいと伝えています。悲しみのうえに、さらなる悲しみをつくらないために。

あの日の経験や記憶を、
次代に伝えていきたい。

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地震発生当時、高校生だった上村陽奈(うえむら はるな)。高校卒業後、地元の石巻で就職。結婚・出産を経て2016年にフコク生命入社。東日本大震災から12年、今改めて思うのは、震災の経験や記憶を次の世代にしっかりと伝えていきたいことだという。

上村
その日は、学校が春休みで母と二人で自宅にいました。経験したことのない大きな揺れ、その揺れが本当に長く続きました。自宅が海から近かったこともあり、揺れが落ち着いてからすぐに車で10分ほど内陸にある親戚の家に避難しました。津波は自宅まで来ましたが床下浸水でしたので、大きな被害は受けませんでした。ただ、ここまで津波が来たということを目の当たりにし、海沿いに住んでいる友人のことが心配になりました。友人と連絡がとれたのは、数日後。友人の「大丈夫だよ、生きているから」という声を聞いた時は、涙が止まりませんでした。数ヵ月後に、学校が再開。わたしのクラスは全員無事でしたが、他のクラスで亡くなった生徒がいると聞き、その事実をどう受け止めていいのかやりきれない気持ちになったことを記憶しています。
震災後、石巻の雰囲気はガラリと変わりました。父方の祖母の家が被災地域にあり、両親と見に行くと辺り一面瓦礫の山。どこに祖母の家があったのか、全く分からないほどです。祖母が暮らしていた街がグチャグチャになっていました。あの頃は、これからどうなるの、生きていけるのかなと不安な気持ちでいっぱいでした。それでも石巻に残る選択をしたのは、この街が好きだから。特に石巻の海が小さいころから大好きです。眺めていると、本当に心が落ち着く。津波があったことで、海を嫌いになった人もいると思いますが、わたしは嫌いにはなれませんでした。石巻は小さな街です。街で暮らす人が、当たり前のようにお互いを助け合う。そんな風土のなかで育ってきて、今は、その一員になりたいと思うようになりました。少しでもこの街の力になれたら、石巻を元気にできたらという気持ちです。

フコク生命に入社したのは、震災から5年がたった頃。2人目の子どもを出産後、友人に誘われたことがきっかけです。入社して7年目を迎えますが、今でもお客さまから震災の話を聞くと感情をコントロールすることが難しいです。震災当時は高校生だったわたしも、今は2児の母親。「娘が津波で流されて・・・」という話をお聞きし、お客さまと一緒に涙を流したこともあります。わたしに、何ができるだろうと悩むこともあります。それでも、「色々と教えてくれてありがとう」「担当が上村さんで良かった」と言っていただけることも増えてきて、これからもお客さまの担当であり続けていきたいと強く思うようになりました。
災害はいつ起こるか分かりません。震災に直面して、あたり前にある日常が、突然失われることを知りました。そして、人の命が突然失われることも。生命保険をご提案することは、震災を経験したわたしだからできることだと分かってはいるのですが、震災に触れることが怖い自分がいます。まだ、うまく言葉にできません。それでも、震災の経験や記憶を伝えていくことに向き合っていきたい。長女は震災について理解できる年齢になりました。わたしなりに感じたことを、そろそろ伝えていこうかなと思っています。小学生になる長男も、徐々に伝えていけたらなと。1日1日を一生懸命生きていく、そして、震災の経験や記憶を次の世代にしっかりと伝えていく。フコク生命に入社して、お客さまの人生と深く関わるようになり、人と人のつながりの大切さをより強く実感するようになりました。お客さまに限らず、石巻で暮らす人に寄り添っていきたいです。辛い思いをされ、不安を抱いている人がいたら力になりたい。あの日、わたしがそうされたように。人に寄り添える、そんなお客さまアドバイザーでありたいと思います。

たまたま救われた命、
だからこそ人の力になりたい。

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小学4年生の時に、岩手県下閉伊郡田野畑村島越地区で東日本大震災に遭遇した則竹美桜(のりたけ みおう)。生まれ育った村が津波にのみ込まれた。何もかもなくなってしまった光景を目にした時、何も言葉が出ずただ呆然と立ち尽くしていた。震災から12年、フコク生命に入社したのは震災の経験が大きいという。

則竹
小学校から自宅へ帰る通学バスを、教室で待っていた時に地震が発生しました。とっさに机の下に隠れたことは覚えているのですが、その後のことはあまり覚えていません。その日は同級生たちと、図書室で一夜を明かしました。地震発生直後は、すぐに普段の生活に戻れるだろうと思っていました。図書室で泊まることも、少し楽しいと感じていたほど楽観的に捉えていました。というのも、わたしたちは情報が隔離された状態だったため、津波の被害を知らなかったからです。
それから数週間が経ち、田野畑村の光景を初めて目にした時は何も言葉が浮かびませんでした。何もかも、なくなっていた。村の誇りだった洋風の駅、友達と遊んだ秘密基地、初めて自転車が乗れた広場、毎年きれいな花を咲かせてくれた大好きだった八重桜。駄菓子を買いに行ったなとか、家族と食卓を囲んだなとか…わたしの記憶にある何もかもがなくなってしまった。そのことを受け止めることに、必死だったと思います。何もかも、なくなってしまったけれど、田野畑村のことは今も好きです。この前も実家のある久慈に帰省した時に、三陸鉄道に乗って田野畑村に行ってきました。村の誇りだった洋風の駅が震災前の姿で再建されていたのは、本当に嬉しかったです。あの日から、また一歩前に進めた。そう思えました。
震災後は田野畑村から引っ越し、生活を立て直すことになりました。転校先の中学校は少し内陸側だったため、津波の被害を受けた同級生はいませんでした。震災について、自ら進んで話をすることはありませんでした。大きく変化する環境のなかで両親に心配をかけまいと、前を向いて生きることに必死でした。その後、高校を卒業し、大学では法律を専攻しました。就職活動の際、ゼミの先生に保険業界をすすめていただいたことがフコク生命に入社したきっかけです。最初は生命保険会社か損害保険会社かで悩みましたが、最終的に生命保険会社を選んだのは震災で命の重みを感じたのが大きいのかもしれません。
わたしには生かされたという感覚が、今でも残り続けています。もし午前授業だったら、バスごと津波にのみ込まれていました。さまざまな偶然が重なり、たまたま救われた命。友達の父親が消防士で、水門を閉じるために海の方に向かって亡くなりました。誰かを救うために命を懸けた人の話を聞くと、わたしは何なのだろうと思うことも。辛いけれど、その状況に浸っていてはいけない。もっと辛い人がいる。そうした人のもとに支援が届けばいいのにという思いがありました。支援されることを、拒絶していました。しかし、今は少し違っていたのかなと思うようになりました。支援を拒絶するのではなく、わたしがその想いを受け止め、本当に助けを必要としている人に届ければよいのだと。それこそ、相互扶助。一対一ではなく、つながっていった先に誰かの想いが届く。そういうことが、相互扶助や支援の輪なのだと思います。生命保険は、誰かに生きるという想いを託せるものだと。誰かの生きるが、誰かの生きるにつながっていく。その想いを支えることができたらと思い、フコク生命に入社しました。
今の目標は、まだ絞りきれていませんが営業所長になることです。営業所長として、お客さまやお客さまアドバイザーの力になりたい。わたしの持てる力を振り絞り、関わるすべての人が前向きになれるように全力を注いでいきたい。たまたま救われた命だからこそ、あの日亡くなられた人の分も、誰かの生きるの力になりたい。それが、わたしの生きるということです。生きていれば良いことがある訳ではないですが、色々なことを乗り越えてきたからこそ思えることなのかもしれません。もし、変わり果てた生まれ故郷を前に立ち尽くすあの時の自分に言葉をかけるのなら、“生きろ”という一言に尽きますね。

最大震度7の大きな揺れと海岸線に押し寄せた津波により、一瞬にして多くの人の命が失われた。「あの日、亡くなられた人たちの明日を生きている。日々一生懸命に生きなければいけない。わたしたちは、生かされたのだから」。東日本大震災から12年、被災した職員たちは辛い記憶に向き合いながら生きてきた。100周年を迎える年に入社した22歳の新入職員は、「生命保険は生きるという思いが託せるもの、その支えになりたい」と強い眼差しで語ってくれた。誰かの生きるを、誰かの生きるにつないでいく、それが生命保険の存在意義なのかもしれない。お客さま一人ひとりの人生に寄り添い、生命保険会社の責務を果たしていく。次の100年も、人の生きるを支えていく。それが、わたしたちに託された使命だ。